太陽の次。

 

 蜻蛉の語源は、『飛ぶ羽根』に在ると謂う。

 或いは、『飛ぶ棒』とも。

 

 古くは〈トンバウ〉、と語し、その後、〈トバウ〉、〈トウバウ〉などと変化し、江戸の頃より〈トンボ〉と音するようになったとか。何よりも、蜻蛉は、何百年も前から、棒に翅が生えたような、羽根だけが飛んでいるような、そんな形態の儘、という事実が、妙に潔い。

 

 ふと思い立ち、『潔い』の語源も調べてみた。

 自然や風景が澄んでいるさま。

 

 為るほど、確かに、今の季節、蜻蛉は、無くてはならない存在である。

 だからこそ、『秋津』とも呼称されたのであろう。

 

 そう思いながら、〈津〉の字を眺めていたら、羽根を伸ばした蜻蛉にも観えて来る。

 

 もう、秋が終わる。

 

 今夜も、月が、綺麗だ。

 

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 栗名月と呼ぶには、ちいと遅し。

 

 

 

Secret Window, Secret Garden

 

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 晴れた朝は、生き物たちの楽園です。

 特に、幾日も雨と風が続いた後では。

 

 雄雉が吠え、大赤啄木鳥が苔むした太枝を太鼓叩きし、蝗が跳び、車飛蝗の後肢が鳴き、それらを蟷螂が捕食しようと、凝然と草に溶け込みます。

 

 黒猫が緩々と、彼等に分け入り、陽を浴びて匂い立つ秋草の叢や刈り取られた雑草の山、枯れた竹幹、自動車のタイヤを、いつもの順番通りに、嗅ぎ、改め、目印付けを淡々と行います。

 

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 生き物ばかりではありません。

 無生物・生物を問わず、朝は、変化を強要します。

 

 木々の間から差し込む陽の光は、葉群が有する寿命の推移と共に、中波長光に代わって長波長光の割合が急激に多くなる、即ち、緑から黄へと、何時の間にか、その色合いを変え、はらはらと屋根に舞い降りる折れ落ちた小枝や、天寿を全うした葉が奏でる叩音は、冷え切った建物が温かみを帯びて伸びをする時に放つ、ぱきぱきという軋音と重なって、私達の準備不足な心に、微かな怯えを呼び込みます。

 

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 そうと気づけば、晩秋の朝の庭は、単なる楽園から、否応なき冥府へのとば口へと変貌し、鳥達の鳴騒も、待ちに待った暖かな陽の光が呼び覚ます歓喜ではなく、軈て来る冬を意識しての喧しい焦燥を物語っているようにも思えてきます。

 

 ふと見上げると、峩々とした頂には、青みを帯びた灰色の装飾が。

 

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 初冠雪。

 

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 冬が来る。

 

あ。今日は、忘れなかった。

 

 謎。

 

 文字の形にしろ、その言葉の響きにしろ、

 非常に心地よい語感です。

 

 脳髄。

 宇宙。

 素数

 言語。

 精神。

 霊。

 生命。

 死。

 

 科学的根拠にしろ、実証性・反証性にしろ、経験主義にしろ、何処か、在るようで無い、無いようで在るモノゴトの説明しか成り立たない、この《世界》は、そんな隙間事象的な謎に満ち満ちています。

 

 そこまで自然科学的ではないにしても、私らのウチにも、仄かな謎が漂っています。

 

 この家には、誰が、住んでいたのか。

 この家の、本当の使用目的は何だったのか。

 玄関前のファサード屋根を支える柱に取り付けられた小さな金具。

 カメムシは、何処から侵入してくるのか。

 

 ま、どーでもいいことですな。

 多分。

 全部。

 

 宇宙だの生命だのと一緒にしては、いけませんです。

 

 或いは。

 一緒にするべきものなのか。

 

 何となく、

 〈家〉に怒られているような気がするのは、

 その所為でしょうか。

 

 謎を謎の儘、終わらせるのではなく、

 意識と興味を、持てと、

 静かに怒っているのかも知れません。

 

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 私は、夜を待ってます。

 

雨に憂えば

 

 今日の伊那谷さんは、

 

 雨。

 ですな。

 

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 霧。

 も、です。

 

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 あれこれと 思惑多し 三連休

 

 無情の雨。

 

 ウチは、ウチで、先月分の出費に吃驚です。

 概算で、283,023円。

 然も、2カ月間、収入ゼロの状況で。

 

 雨音が、一段と身に染みる……

 

 訳でもありませんが、不安は、一向に払拭されません。

 

 節約しようにも、まだ、収入も無い訳で、仮に、収入があったとしても、焼け石に水だったりして。

 

 まぁ、世界は否でも、回って行くし、今更、ジタバタしたところで、始まりません。

 

 何とか、妻だけでも、健やかに、食わして行かにゃあ。

 

 そう念じつつ、連休明けより、

 

 仕事開始

 

 です。

 

 何はともあれ、

 

 戴いたみかんの甘さが、有り難くも嬉しい夜に、 

 

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 感謝。 

虚動浮心

 

 異化。

 

 或いは、事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法。

 

 かつて語幹に宿っていながら現在では失われ擦り切れてしまったイメージにたどりつくとき、その美しさに僕らはしばしば驚嘆させられる。かつて在った、だがもはや失われてしまったその美しさに。

 

 と、ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーは記しています。

 

  (全て、Wikipediaからの孫引きです。失礼しました

  

 日本における近代文学論の雄、小林秀雄は『批評家失格Ⅰ 』の中で、このように書きました。

 

 優れた作品はみな人を食っている、どんなにおとなしく見える作品でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼があるのだ。しばらく人間を廃業した眼があるのだ。

 

 そして、こう続けました。

 

 作品の現実とはいつも象徴の現実である。

 

 どこかで常軌を逸しようと企む者たちを、全て『作家』と一括りでまとめてしまおうとするのは、兎角、危険では、あるのでしょう。

 

 ですが、それらの全てに『作品』性を見出してしまう魅力に抗う事もまた、大きな『芸術』的損失を招きかねない、危険な態度とも言えるのでしょう。

 

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 現実は、なにもかもをも、隠してしまいます。

 

 

容疑者たち

 

 御客様、御二匹様、御案内。

 

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 このクロちゃんは、堂々と、ウチの玄関の前で寝そべっておりました。

 

 覚られて、激写、失敗。

 

 妻が追い、殆んど、『だるまさんがころんだ』状態で撮りました。

 

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 逃げては、停まり、逃げては、また、停まる。

 

 その繰り返し。

 

 これは、ももちゃん。

 

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 近くまで来ますが、結果的には、

 

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 つん。

手相も観て戴けルンです。

 

 い癖で、お店にしろ、他人の家にしろ、本棚が置いてあったりすると、ついつい、覗いてしまいます。本棚に並んでいる本の中身と住人の関係って、意外とあるようで、ないんじゃないか、というのが、私の持論です。特に、読書の習慣がなくても、本って、少なからず、増えて行くものだし、本好きの人間だからといって、好きな本ばかりが本棚にあるとは限りません。

 

 みに、この伊那谷に引っ越して来る時、相当数の本を処分しましたが、残念乍ら、惜しいと未だに思っている本は、殆んど、ありません。唯一、あるとすれば、折角、戴いた特別な本を、間違って売ってしまったことぐらいでしょうか。

 

 ああ、出来るなら、取り戻したい。

 

 も、本棚で、その住人なりの人柄が出てしまう点が、ひとつだけあります。

 

 並べ方です。

 

 真は、今日、お邪魔した長野県箕輪町にあるお蕎麦屋さんの店内です。もともとのご自宅を、ほぼ全面その儘の形(多分、厨房も、嘗てのキッチンを、そのまま活用されていると思います。チラ観での判断ですが)でお蕎麦屋さん+カフェにしてしまったという、実に洒落たコンセプトを持つお店です。

 

 絶品なお店でした。

 

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 ね?

 

 なんとなく、人柄が伝わってくるでしょ?

 

 みに、私の本棚は、

 

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 こんな感じです。

 

 あ、ウチの場合は、本自体に、住人の色が極めて出ていますが。

 

 何が、『意外とあるようで、ないんじゃないか』だ。

 

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 うそう、ふと思い出しました。昔、劇画か何かで、主人公が、本棚に並んだ本が綺麗に整理されていることで、侵入者が居ると察知するシーンがありました。その主人公、本のタイトルが上下さかさまになっていてすら、気にならない性格だったのです。

 

 遉に、そこまでは。