虚動浮心
異化。
或いは、事物を「再認」するのではなく、「直視」することで「生の感覚」をとりもどす芸術の一手法。
かつて語幹に宿っていながら現在では失われ擦り切れてしまったイメージにたどりつくとき、その美しさに僕らはしばしば驚嘆させられる。かつて在った、だがもはや失われてしまったその美しさに。
と、ソ連の文学理論家であるヴィクトル・シクロフスキーは記しています。
(全て、Wikipediaからの孫引きです。失礼しました)
日本における近代文学論の雄、小林秀雄は『批評家失格Ⅰ 』の中で、このように書きました。
優れた作品はみな人を食っている、どんなにおとなしく見える作品でも人はちゃんと食っている。そこには人世から一歩すさった眼があるのだ。しばらく人間を廃業した眼があるのだ。
そして、こう続けました。
作品の現実とはいつも象徴の現実である。
どこかで常軌を逸しようと企む者たちを、全て『作家』と一括りでまとめてしまおうとするのは、兎角、危険では、あるのでしょう。
ですが、それらの全てに『作品』性を見出してしまう魅力に抗う事もまた、大きな『芸術』的損失を招きかねない、危険な態度とも言えるのでしょう。
現実は、なにもかもをも、隠してしまいます。