石の血脈
石は、古代より、人間の生活には無くてはならない存在でした。
生活用具。建築用資材。装身具。極々限られた使い方ですが、食用も存在します。
これら実質的な使用方法としてだけではなく、精神的な拠り所としても、石は活用されてきました。
例えば、〈宝石〉です。
〈宝石〉には、特別な力が宿っている。
人々は、そう信じてきました。
エメラルドは、眼や精神を癒す効果があり、ペリドットは暗闇に光を齎す力を秘め、ルビーは、毒や病気、血や熱に対して効力があります。ガーネットには、友情や愛を深める性質があり、媚薬の代わりとして用いられ、ムーンストーンは、イライラなどの神経過敏を鎮めました。
勿論、今も昔も、『※個人的な感想です』の域を出ないのでしょうが。
やがて〈宝石〉は、その希少性や美的意味合いから、主に、高級装身具としての役割を担うようになりました。ダイヤモンドの輝きや真珠の気品さ、サファイアの崇高さは、身に着けた者に、ご加護を与えるかどうかは兎も角、身に着けた者を映えさせるという点では、衆目の一致を見たのでしょう。
ですが、昔より語り継がれて来た、それら「〈宝石〉の効能や守護性が身に着けた者に影響を及ぼす」という考えは、単に『迷信』『俗信』の類いだ、と切って捨てられるのではなく、例えば、所謂『パワーストーン』を用いたブレスレットや婚約や結婚の時に交わされる〈誕生石〉の指輪へと形を変えて、現代の私たちに深く結びついています。
一方、石が持つ、もうひとつの特徴である頑健性や重量性もまた、武器や調理用具、農漁用機具、建築用資材として、重宝されてきました。ミクロネシア連邦のヤップ島で使われていた石貨などは、特殊な部類に入るのでしょうが、木材に次いで、石材は、非常に使い勝手の良い《単純自然材》として、人々の生活の中で、大きな役割を果たしてきたのです。
考えてもみれば、石とは、とても、不思議な存在です。
ふと見れば、あちこちに転がっている、実に身近な存在なのに、今一つ、よく分かっていません。
はて、石とは、一体、なんでしょう。
石には、3つの種類(或いは、生成過程のカテゴリー)があります。
先ずは、《火成岩》です。地球内部にあるマグマが、冷えて固まった物で、この《火成岩》には、更に、マグマがマグマ溜りから地表や地表付近に噴出して固まった「火山岩」と、地下で冷えて固まった「深成岩」とがあります。
砂や泥、小石、生物の死骸等が長い長い年月を経て堆積し固まった物を《堆積岩》と呼びます。「礫岩」、「砂岩」、「泥岩」があり、漢字を見て戴ければ、何となく想像がつくように、小石(と言っても、直径2ミリ以上から)が寄り集まって造られたのが「礫岩」、砂が堆積して固まったのが「砂岩」、泥や粘土が押し固められて生成されたのが「泥岩」です。これらを総称して、『砕積岩』と言います。
また、こういった『岩石』が破砕し、積み重なって造られる石以外にも、火山灰等火山の噴出物から造られた物である『火山砕屑岩(火砕岩)』や生物の死骸や残骸(植物、サンゴ、微生物等)が堆積した『生物岩』、海水に含まれる塩や川や湖の水に溶けている物質が沈殿して固まった石である『化学岩』などが存在します。
一方、これら《火成岩》や《堆積岩》が、更に、マグマの高熱や地下の高圧力に因って変化してしまった物を《変成岩》と呼びます。《変成岩》には、マグマの熱自体の影響で変成した『接触変成岩』と、造山作用を齎す、地球内部の所謂《プレートテクトニクス》が、極めて広域な範囲に引き起こす変成作用によって造られる『広域変成岩』とがあります。
さて、これら3種の石が造られる過程に無くてはならない存在が、《マグマ》です。否、石は、全て、《マグマ》から生成されていると言っても、過言ではありません。《マグマ》なくしては、《火成岩》や《変成岩》は勿論、砂や泥や小石などの堆積させる素材もなくなって、《堆積岩》すらできません。
では、石の成立ちに無くてはならないという《マグマ》とは、一体、どういう存在なのでしょうか。
非常に、簡単に言えば、岩石が溶けた物です。
え? じゃあ、その岩石は、何処からやってきたの?
答えは、地球内部です。
地球の内部構造を極めて粗く説明すると、中心となる核(内核と外核)を、マントル(下部マントルと上部マントル)が包み込み、その周囲を恰も卵の殻よろしく、地殻が覆っている、という構図になります(下図参照……に、ならなかったら、ごめんなさい)。
地球内部図
(上・下部マントル部分は割愛させて頂きました)
核を取り巻くマントルは、非常に高温(1500度~3000度)ですが、懸かっている圧力は、15万から20万気圧、場所に依っては140万気圧にもなり、また、これ程の高温でありながら融点に達していない、即ち、もっと熱くないと溶けないという奇妙な性質なので、固体の儘の状態を保っています。
この高温・高圧な固体であるマントルの『とある部分』が、何らかの理由から、温度が更に上がったりする事があります。『とある部分』は、周囲のマントルよりも熱くなった分だけ軽い為、少しずつ、上昇を始めます。暖かい空気は冷たい空気よりも軽いので、上へ上へと昇る性質を持つのと同じです。
マントルは、熱が伝わり難いという特質があるので、『とある部分』は、上昇しても冷めず、やがて、圧力の低下が始まります。地球内部は、当然ながら、中心の核に近づけば近づくほど、気圧は上がり(中心気圧は凡そ364万気圧)、地殻に近づけば近づくほど、下がって行くからです。温度の上昇と圧力の低下により、マントルは、徐々に溶けて行きます。これが、《マグマ》だと言われています。
何故、《マグマ》が発生するのか、言い換えれば、マントル内の『とある部分』に、何故、突然の温度上昇が起こり、融点が低下(1500度とか2000度の温度を持つ物体の〈融点〉という概念自体に、既に困惑してしまうのですが)が発生し、マントルの圧力低下を招き、結果、《マグマ》が起生するのか、その確たる理由は、明確にはなっていないようです。
電磁波や地球内部に存在する水分、或いは摩擦熱や核分裂、将又、水蒸気爆発と多くの仮説が唱えられていますが、その深度ゆえ、確認が出来ないというのが実情のようです。
何れにしろ、マントルが溶け、《マグマ》となり、様々な変遷を辿り乍ら、圧し固まった存在、それが石なのです。
無論、石の、この何処か謎に満ちた生成過程が、その儘、ダイレクトに影響しているとは考え難いのですが、どういう訳か、人々は、これら石に対して特別な感情を呼び起こしたがるようです。
その一つの形が、前述した〈宝石〉に対する思い入れなのですが、更に、また別の形で、人々が石に対して傾ける特殊な感情が存在します。
即ち、《信仰》です。
石は、常に、《信仰》の付随物、或いは、《信仰》その物として、人々の生活に浸透してきました。
では、その根源に横たわっている人々の感情とは、一体、何なのでしょうか。
その点について、もう少し、掘り下げてみましょう。
境界線上の守り主
『南割』という地名は、何に、由来するのでしょうか。
〈割〉という言葉には、御存じのように、「分割する」という意味があります。
割り算、割り合い、割り振り、分割。
もともと、〈割〉は、「(刀で)切り分ける」という成り立ちを持つ字です。
『刂(りっとう)』は、『刀』が変化した文字であり、『害』は、「そこなう」という意味合いを有しています。
ちょっと横道に逸れますが、『害』の原義は、「頭に被り物を付けた様」から、「かさ」とか「おおう」という意味を表し、『蓋』の原字でした。それが、何時しか原義が廃れ、『割』に通じるようになり、「そこなう」という意を持たせたと謂います。確かに、『刀』で割られれば、幾ら、兜のような「被り物」をしていたとしても、無傷ではおれなかったのでしょう。
ソ連の文学理論家ヴィクトル・シクロフスキーが云う所の、《かつて語幹に宿っていながら現在では失われ擦り切れてしまったイメージ》の美しさほどではないにしろ、文字とか言葉とかは、実に、奇妙な振舞いを私たちに垣間見せてくれる存在である、という格好の証左ではありましょう。
おっと、閑話休題。
さて、『南割』という地名は、意外とあちらこちらで使われているようです。
例えば、我が国に伝わる《七不思議》物のひとつである『本所七不思議』にも、この名称が出てきます。
『本所七不思議』は、東京都墨田区に江戸時代より語り継がれる、所謂《都市伝説》です。『七』と銘打ってはいるものの、合算すると九つの話が存在し、それらは、浮世絵や小説の題材として、多く取り上げられています。
その中のひとつに『消えずの行燈』若しくは『灯りなしの蕎麦屋』という話があります。
前者は、夜泣き蕎麦屋の屋台の行燈が、主もいないのに煌々と灯り続け、油が切れる様子もない。客が火を消そうとすると、善くない事が起きる、という物。後者は、その逆バージョンで、行灯の灯っていない蕎麦屋があり、客が待っていても、いつまでたっても店主はやってこない。気を利かせて行灯を灯すと、その者に不幸が降りかかる、といった内容になっています。
この『蕎麦屋』があったのが、江戸時代、雨水等の下水を流す掘割として開発された《南割下水》近辺であるといいます。
『本所七不思議之内 無灯蕎麦』(燈無蕎麦) / 昇旭斎国輝 画
【明治41年頃の南割下水】
この『南割』の〈割〉は、「掘割」の〈割〉と同義語で、明暦3年(1657年)に起きた明暦の大火(所謂《振袖火事》)のあと、万治2年(1659年)に雨水を川に排水するために掘られた堀全般を指す言葉でした。因みに、それらは『割下水』と呼ばれ、『南割下水』を筆頭に、『東中割下水』『北割下水』などと名称されました。
東京という土地は、海に面しているという立地的特徴から、江戸の頃より水上輸送・交通が発達し、それに伴い、掘割や埋め立てによって運河網が、常に整備されてきました。
一方、駒ケ根という地域もまた、30余もの渓流を抱く中央アルプスからの豊富な水に恵まれ、水路や掘割が、実に多い土地です。『南割』以外にも、『北割』『市場割』『中割』といった地名が散見し、近辺に用水路や掘割、或いは小川が見受けられます。このことから、『南割』の〈割〉は、ほぼ間違いなく、「掘割」の〈割〉を表すのではないかと考えられます。
因みに、私たちが暮らす飯島町田切の周辺にも、水路や掘割は、無数に存在します。家のすぐ横を走る水路は、こんな感じです。
ですが、地名の〈割〉が持つ意味には、もう一つ、考えねばならない点があります。
突然ですが、日本一長い地名ってどこでしょう。
愛知県海部郡飛島村大字飛島新田字竹之郷ヨタレ南ノ割
だ、そうです。
(但し、2014年11月時点での正確な情報は分かりません。若しかしたら、住居表示の関係で変わっているかも…)
この地名の最後尾『南ノ割』の〈割〉は、文字通り、「分割」を表しています。『南ノ割』の前に付いている『ヨタレ』は、イロハ四十八文字で土地を区分けした為に付された文字であり、『竹之郷』(これも、松竹梅で区分けした為に付いた呼び名だと言います)という場所をイロハから順番に銘打ち、その内の『ヨタレ』という土地を更に南と北に分けた、そういう意味が、この『南ノ割』にはあります。
ここで付けられた〈割〉は、『掘割』と言った役割や名称に因んで付けられたのではなく、或る種の《境界線》として名付けられたと言えましょう。
確かに、《地名》とは、土地を象る閉じられた《境界線》であると訳せなくもありません。《境界線》を具体的な形態で明確化させるには、壁や塀、柵、ロープ、或いは、法的な縛り等を含め、様々な方法がありますが、人間が感知し得る形式で整備するには、矢張り、物理的に限度があります。
これは飽く迄も私見ですが、今もなお、非常に曖昧に生らざるを得ない《境界線》を、極力、視覚化させる為に、《地名》というシステムは機能しているのではないでしょうか。と同時に、その《地名》を、為るべく目に観える形で置き換えやすいように、実際の《境界線》を定める時に、例えば、河川や山稜、谷間、道、そして、勿論、掘割や用水路が用いられたのかも知れません。
その《境界線》が隔てる〈内〉と〈外〉を守る存在が『石碑』等の《道祖神》なのではないか。
そんなふうに、想えるのです。
南割
さて。
伊那谷で暮らし始めて、あともう少しで、丸2ケ月。
色々な人と知り合い、仕事にも行き始め、車の運転にも、そこそこ馴れてきました。
そうそう、今朝、教科書も持っていないのに、どこかの大学の講義に出席している夢を観ました。
若しも、心の裡の何事かが、夢に反映されるとするならば、僅かながらでも、前向きな気分に、日々為りつつ在るのかな、と思ったりします。
で。
最近、伊那谷の彼方此方を見ているうちに、ふと、『呼ばれて来たのかなぁ』と感じる機会が多くなったような気がします。
例えば、辻々の道祖神とか、道端に忽然と現れる石碑とか、素朴な造りの赤い鳥居とか。
民俗。
なんて、文字が、ふと頭を過ったりします。
折角なので、暫く、この方面を追ってみようかと思います。
私が、『呼ばれた』と感じる存在の正体は、何なのか。
心の中に入り込んだ、奇妙な呼び声の持ち主は、誰なのか。
それらが分かれば、若しかしたら、私が、伊那谷に居ても良いかもしれない理由が、垣間見えるのかな、なんて考えたりします。
先ずは、この2枚の写真を。
駒ケ根の南割と呼ばれる辺りを走る道の途中に散見する石碑群です。
先ず、目につくのが、次の2つの文字でしょうか。
『金毘羅大権現』
『秋葉大権現』
では、少しずつ、紐解いて、みましょうか。
ストレイカー
貴方は、幽霊の存在を信じますか?
貴方は、UFOの存在を信じますか?
貴方は、ネス湖にUMAが棲息していると思いますか?
貴方は、予知を信じますか?
貴方は、雪男が実際に居ると思いますか?
貴方は、呪いを信じますか?
貴方は、タイムトラベルを信じますか?
貴方は、不老不死を信じますか?
貴方は、人体発火現象が起こり得ると思いますか?
貴方は、瞬間移動を信じますか?
貴方は、地球は空洞だと思いますか?
貴方は、転生を信じますか?
貴方は、超古代文明の存在を信じますか?
貴方は、妖怪がこの世に居ると思いますか?
貴方は、念力の存在を信じますか?
貴方は、世界の終りが来ると思いますか?
『信じる』と『思う』の違いは、何でしょう。
《なるべくなら、在ってほしくない》的なニュアンスは、『信じる』。
《ちょっと、期待しちゃう》的な感覚が、『思う』。
とすると、私は、世界の終りを期待してるという事になります。
別に、雪男は要らんしなぁ。
でも、この伊那谷で暮らしていると、雪男が居るかどうかは兎も角、知っている自然と知らない自然の二つの存在を何となく、感じてしまいます。
忽然と舞い散り始める羽虫。
夜半に響く何物かの吠え声。
微かな振動を伴う地響き。
何処までも何処までも伝わって来る騒めき。
時も、空間も、私たちが知らない部分を隠し持っている。
世界の終りすらも、ここでは、自然の摂理だと、説得されてしまいそうな。
伊那谷は、そんな気分に、させてくれます。
林の中の象
一人のヒトの人生を喩える、最も、相応しい言葉とは、何か。
多くの人々が、考え、語り継ぎ、感化され、また思い、言葉にしてきました。
物語。本。詩。時。一日。夢。花。樹。河。道。旅。学校。芝居。ゲーム。
恐らく、そのどれもが当て嵌まり、得心のゆく言葉なのでしょう。
けれど、物語にしろ、一日にしろ、旅にしろ、ゲームにしろ、実に問題なのは、どれほど、単調だろうと、複雑だろうと、苦痛だろうと、面白かろうと、それらを語ったり、過ごしたり、行ったりしているヒトにしか、その正確な中身は、或いは、面白味や苦悩性は、測り知る事が出来ない、という点です。
物語は、それが語られて、初めて、物語となり、一日は、その一日の間に存在してこそ、一日を実感し、夢など、その夢見る本人にしか、内容は分かりません。
人生は、一つ一つが、全きセルフメイドであり、然も、その作り手なり、登場人物なり、プレーヤーにしか、それに触れたり、味わったり、感じ取ったりする事は、叶わないのです。
マハートマの悲しみは、マハートマしか知らない。
古の格言が伝える通り、私たちが他人の思考や意志、或いは経験を、想像や思案でしか感知できない以上、ヒトは、自らの人生を、たったひとりで感得し、処理し、最終的な落としどころを、意識的にも無意識的にも、また、任意、強制、半強制、何れを問わず、決定していかなければなりません。
否。
そんな事は、ない。
どこぞの海賊団の麦わら帽をかぶった船長の物言いではありませんが、
仲間がいる”よ‼‼
そう。
確かに。
分かり合える家族、友達、恋人、そして、仲間。
完全とまではいかないまでも、少なくとも、自分の事を理解してくれる、そして、自分も相手の存在を必要とする相互扶助の関係こそが、この極めて孤立した構造を持つ人生を、緩解し、和ませ、《閉じた空間》への埋没を防ぐ補完システムなのでしょう。
けれど、それらは、非常に脆く、不確かで、何時でも破綻が可能な、保険の利かないシステムでもあります。本来なら補完すべきシステムが、逆に牙を向き、追い込み、自ら崩壊を招く、そんな状況に陥る場合も少なくありません。
私は、想うのです。
人生に於ける見極め(自己にしろ、他者にしろ)は、唯、次の二点に於いてのみ把握していればよいのではないか、と。
即ち、生と死です。
始まりと終わり、と言った曖昧な存在ではなく、唯一無二、或いは、その一点に凝縮可能な二つの事象。人生とは、その二点を結ぶ線でしかなく、また、その二点が存在してこそ、初めて、ヒトの存在を存在たらしめる、この地球という星の中に物理的に在らしめる為にすら必要不可欠な、現象的且つ抽象的な事柄。何をどう足掻こうと、必ず身に降りかかり、決して逃れられず、また、どう工夫を凝らそうと、想いを馳せる事も、疑似体験も、僅かな想像すら受け付けない究極の個人的行為。
私は、それ故に、寧ろ、把握し易いと考えるのです。
要は、本質は、分からない。分からないけれど、明瞭だ。
なら、シンプルに、其の儘の状態を受け入れる。
生。
死。
すると、ふと、ヒトの人生が、見え易くなる。触れ易くなる。感知し易くなる。
そんな気がします。
イノリ
多情仏心
もっと、綺麗な月を我が手に、と眼球は嘆いた。
しまった。
まだ、栗名月、間に合ったみたい。
否、精確には、『後の十三夜』と呼ぶそうですが。
本来の栗名月は、先月の6日なのでしょう。
然も、今夜は、171年ぶりの月夜だそうです。
てな訳で、2日続けての、月の写真です。
朧月、
或いは、
薄月。
月も、また、潔し。