林の中の象

 一人のヒトの人生を喩える、最も、相応しい言葉とは、何か。

 多くの人々が、考え、語り継ぎ、感化され、また思い、言葉にしてきました。

 物語。本。詩。時。一日。夢。花。樹。河。道。旅。学校。芝居。ゲーム。

 恐らく、そのどれもが当て嵌まり、得心のゆく言葉なのでしょう。

 けれど、物語にしろ、一日にしろ、旅にしろ、ゲームにしろ、実に問題なのは、どれほど、単調だろうと、複雑だろうと、苦痛だろうと、面白かろうと、それらを語ったり、過ごしたり、行ったりしているヒトにしか、その正確な中身は、或いは、面白味や苦悩性は、測り知る事が出来ない、という点です。

 物語は、それが語られて、初めて、物語となり、一日は、その一日の間に存在してこそ、一日を実感し、夢など、その夢見る本人にしか、内容は分かりません。

 人生は、一つ一つが、全きセルフメイドであり、然も、その作り手なり、登場人物なり、プレーヤーにしか、それに触れたり、味わったり、感じ取ったりする事は、叶わないのです。

 マハートマの悲しみは、マハートマしか知らない。

 古の格言が伝える通り、私たちが他人の思考や意志、或いは経験を、想像や思案でしか感知できない以上、ヒトは、自らの人生を、たったひとりで感得し、処理し、最終的な落としどころを、意識的にも無意識的にも、また、任意、強制、半強制、何れを問わず、決定していかなければなりません。

 否。

 そんな事は、ない。

 どこぞの海賊団の麦わら帽をかぶった船長の物言いではありませんが、

 仲間がいる”よ‼‼

 そう。

 確かに。

 分かり合える家族、友達、恋人、そして、仲間。

 完全とまではいかないまでも、少なくとも、自分の事を理解してくれる、そして、自分も相手の存在を必要とする相互扶助の関係こそが、この極めて孤立した構造を持つ人生を、緩解し、和ませ、《閉じた空間》への埋没を防ぐ補完システムなのでしょう。

 けれど、それらは、非常に脆く、不確かで、何時でも破綻が可能な、保険の利かないシステムでもあります。本来なら補完すべきシステムが、逆に牙を向き、追い込み、自ら崩壊を招く、そんな状況に陥る場合も少なくありません。

 私は、想うのです。

 人生に於ける見極め(自己にしろ、他者にしろ)は、唯、次の二点に於いてのみ把握していればよいのではないか、と。

 即ち、生と死です。

 始まりと終わり、と言った曖昧な存在ではなく、唯一無二、或いは、その一点に凝縮可能な二つの事象。人生とは、その二点を結ぶ線でしかなく、また、その二点が存在してこそ、初めて、ヒトの存在を存在たらしめる、この地球という星の中に物理的に在らしめる為にすら必要不可欠な、現象的且つ抽象的な事柄。何をどう足掻こうと、必ず身に降りかかり、決して逃れられず、また、どう工夫を凝らそうと、想いを馳せる事も、疑似体験も、僅かな想像すら受け付けない究極の個人的行為。

 私は、それ故に、寧ろ、把握し易いと考えるのです。

 要は、本質は、分からない。分からないけれど、明瞭だ。

 なら、シンプルに、其の儘の状態を受け入れる。

 生。

 死。

 すると、ふと、ヒトの人生が、見え易くなる。触れ易くなる。感知し易くなる。

 そんな気がします。

 

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