オールウェイズ・カミングホーム

 

 ここ伊那谷の地での初めての冬を迎えてからというもの、ずっと、頭から離れないイメージがあります。

 

 ワイエスの絵。

 

 運転の途中で、ふと目にする風景。

 冬枯れた畑の隅の小さな池。

 曇天が切り取る木々の傾斜。

 骨組みまで朽ちた農機具小屋。

 なだらかな丘に点々と散らばる家々。

 そして、四つ辻や土手に積まれ、置かれ、建立されている石たち。 

 

 アンドリュー・ワイエス

 アメリカの国民的画家。

 リアリズム絵画の巨匠。

 孤独の天才。

 私が、初めて観たワイエスの絵は、〈クリスティーナの世界〉でした。

 と言っても、画題は勿論、誰が描いたものかすら、知りませんでした。

 友人宅の壁に飾ってあったその絵は、強く、私を惹きつけました。

 孤独。悲哀。苦悩。寂寞。荒涼。

 恰も、一枚の写真のように切り取られた、その独特のタッチは、どこか私の心に、なんとも言い知れぬ陰影を落としたものです。

 

 やがて、テレビでやっていたワイエスの特集で、その絵の作者の名と描かれた背景を知ったのですが、作者名は兎も角、絵が描かれた背景については、あまりに思い描いていたイメージとはかけ離れていたものですから、なんとも、人間の主観なんぞというものは当てにならない、と笑ってしまいました。

 

 因みに、これが〈クリスティーナの世界〉です。

 

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 アンドリュー・ワイエスは、アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれ、画家としては、生涯、この生地と別荘のあったメイン州クッシングの二つの地の風景と暮らす人々だけを描いたそうです。

 ここに描かれた〈クリスティーナ〉は、クッシングに住む女性です。幼い頃から両足が不自由な彼女の生活は、『這う』ことによって成り立っていました。〈クリスティーナ〉は、実に、力強く生きた人です。彼女は、両手と、その動くところの体のみを使って、『這い』ながら、家事をこなし、人生を全うしました。この絵に描かれた情景は、〈クリスティーナ〉が彼女の家族が眠る墓地へとお参りに行った、その帰りだと言われています。彼女が目指す先には、我が家があります。私たちが見る限りでは、『這って』行くには、とても遠く難儀な道のりに思えてしまいます。ですが、彼女にとっては、日常茶飯事、きっと『ノー・プロブレム』な行為なのでしょう。

 孤独も、悲哀も、苦悩も、寂寞も、荒涼も、〈クリスティーナ〉には、余計なお世話、彼女は、その全てを受け入れた上で、唯々、前を向き、粛々と我が家へと帰る、それだけの事なのです。他者の〈日常〉とは、きっと、そういうものなのでしょう。

 けれど、そんな後思案を余所に、ワイエスの筆致がひしひしと伝えて来る、容赦ない〈世界観〉が存在するのも事実です。

 

「私は秋と冬が好きだ。その季節になると、風景の骨格が感じられてくる。その孤独、冬の死んだようなひそやかさ」

 

 ワイエスは、そう語っています。

 風景の骨格。

 例えば、想像してみてください。

  

 

 この絵の、春の風景を。

 或いは、夏の情景を。

 木々は、緑葉に覆われ、大地には、緑の絨毯が敷き詰められる事でしょう。

 鳥達が囀り、花々が揺れ、心地よい風が林を吹き抜けます。

 人間が〈緑〉を〈緑〉として捉える脳のメカニズムや、その理由については、一先ず置くとしても、〈緑〉という色彩は、非常に、心地よい感覚を人間に齎します。

 或いは、それは〈生〉を表すのに、最も適した色彩かもしれません。

 春は、それまでの何もかもが寒さに包まれ、廃色に彩られた冬から一転して、一気に暖かな色合いに包まれ、生命が再び謳歌する〈始まり〉の季節。冬という厳しさの中で、一旦リセットされていた〈生〉は、春がそっと押した芽吹きのスイッチと共に、大きなうねりとなって、大地を覆ってゆきます。

 そのひとつの象徴が、〈緑〉なのです。

 けれど、ワイエスの絵には、そんな目にも心にも心地よい空間は、全く見当たりません。在るのは、唯、静寂と孤独、そして、真摯さ。孤高の画家は、自らを抽象画家であると語っています。彼の絵に描かれたリアルさは、その儘、自身のリアルな心象に他ならなかったのでしょう。

 

「私の作品を身近な風景を描いた描写主義だという人達がいる。私はそういう人達をその作品が描かれた場所へ案内することにしている。すると彼らは決まって失望する。彼らの想像していたような風景はどこにも存在しないからだ」

 

 私は、この《伊那谷》という大谷の風景の何処に、否、何に、ワイエスの心象を重ねたのでしょうか。〈信仰〉や〈祈り〉とは無縁な筈の私に、この大谷は、奇妙な感慨を芽生えさせました。畑の畦道に、道の四つ角に、ぽつんぽつんと鎮座した『石』の守り神たちは、実に孤高な存在であると同時に、極めて強い訴求力を放出する力強さを、私に与えてくれました。その感慨は、〈クリスティーナ〉が目指す先に、風が吹きぬける農場の一角にもまた、『石 』の存在を教えてくるのです。

 或いは、その感慨こそが、風景の骨格なのかもしれません。

 いや、この場合は、〈生の骨格〉と表現した方が精確でしょうか。

 何もかもが削ぎ取られた後に残った本来性。

 赤裸々で生々しい生。

 そこに見え隠れする〈死〉への……

 そう。

 問題は、その先なのです。

 

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