なんて、エラそうな事を、昨日は書いておりましたが。
実際には、そこまでで、
思考停止
でした。
まぁ、取り敢えず、経済的に『ヤバい』という事実は分かった。
でも、当分、先の話じゃん。あと、6、7年後でしょ?
妻は兎も角も、私は、そう考えました。
実は、もう一つ、予てよりの懸念事項があったのです。
それは、老親の行く末を、どう見据えるか、という問題でした。
私、一応、長男です。
老父は、3度の手術を乗り越え、多少、元気はなくなりましたが、それでも、日々、気儘な(母に言わせると、殆んど、寝てばかりいる)生活を過ごしておりました。一方、老母は、と申しますと、こちらはこちらで滅法元気で、旦那に対する愚痴の嵐を周囲の人間に撒き散らしてはおりましたが、或る意味、その愚痴が元気のバロメーターみたいなものらしく、至って達者で(周りは、結構、大変でしたが)暮らしておりました。
けれど。
父の(自分勝手な)気儘さと、母の(他者を巻き込む)愚痴は、やがて、視るに堪えない夫婦崩壊の様を呈するようになって行きました。
私と妻は、そんなふたりを、何とかして、穏やかな生活に戻してやりたい、健やかな老後を送らせてやりたい、そう思って、宥めたり、賺したり、時には、辛辣な言葉をぶつけながら(妻は、そんな時、とても後悔してたようです。酷い嫁だな、と)、あれこれと試行錯誤を繰り返していました。
そうそう。
そういえば、その頃、たまには独りになりたいという母の為に、父を都内のホテルに連れ出した事もありました。
その時、一緒に観た、お花畑です。
浜離宮の公園だったかな。
東京にも、こんな場所があるんだ、と思ったものです。
当時の父は、数メートルを歩くのすら大変でしたし、そもそもが、何故、自分がホテルになんぞ連れ出されなけりゃならないのか、その理由にも、今一つ、ピンと来てなかったようです。
私自身も、何故、父を、わざわざ高い金を払って(あ、勿論、費用は全額、タクシー代、電車代まで、全て両親持ちでした)までして、連れ出さなきゃならないのか、ずっと疑問ではありましたが。
そんな父と母を、そして、そんなふたりが住まう実家を、今後、どうするべきか。
例えば、介護保険を使って、色々なサービスを受けて、お互いの負担を軽くする、とか。家を処分して、もっと住みやすい介護付きのマンションとか老人ホームに入居する、とか。いや、いっその事、離婚して、別々に住んでしまうとか。
結局、両親は、私たちが意見し、提案する事柄を、何一つ、受け入れてはくれませんでした。
最終的に、こちらが汲み取れたふたりの想いとは、
この住み慣れた我が家で、最期を迎えたい。
という事だけでした。
なんじゃい、そりゃ。
ぶっちゃけ、それが私と妻の忌憚無い感想でした。
でも、まあ……
ふたりには、ふたりの人生がある。
ならば、どういう形に終わるのであれ、それを全うさせてやれば良い。
私たちが口出しできるのは、これがもう限界だ。
冷たい言い方かもしれませんが、私たちは、諦めてしまったのだと思います。
とは、思いつつも。
私は、何処かで、望みを繋いでいました。
『借地権の更新』という言葉に。
そう、私が育ち、そして、老父母が住まう事を望んだ家は、借地でした。
賃貸の家賃のように地代を払い、また、然るべき期日がくれば、新たな契約を交わし更新料を支払わねばなりません。
地代は、安いです。
都内のちょっとした賃貸物件の3分の1とか4分の1といった感じでしょうか。
でも、その代わりに、更新料は高いのです。
一気に、その200倍以上もの金額を支払う事になります。
きっと、その時になれば、さすがの両親も、もう少し、より現実的な考えに傾いてくれる筈。
私は、そう考えました。
そして、その更新の期日が来るのが、まさに、私たちが地方への『脱出(D)』を目論んでいる6年から7年後と、ほぼ重なるのでした。
その時が来たら、色々が一気に動かざるを得ないだろう。
その時が来るまで、まあ、気長にやればいいじゃない。
大体、この両親に絡んだ一連の事柄が片付かない限り、地方へ引っ越すも蜂の頭も無いだろう。
所謂、棚上げ、先送りです。
案の定、私のそんな甘い見通しは、3年を経ずして、見事に潰え去りました。
妻の体調が一気に悪くなり、彼女が長年勤めていた会社を退職せざるを得なくなったのです。当然、《D計画》は雪崩を打って進行を早める事になりました。
それが今年、2014年3月の事でした。
それから、約半年の間に、私たちは、長野県上伊那郡飯島町という素晴らしい土地と出会い、色々な方々の力を借り、両親の行く末に一応のケリをつけ……
そして、
引っ越しました。
今から思えば、よくもまあ、それだけ短い期間に、何もかも、一気に進められたと思います。
で、その挙句が、
アリジゴクかーいっ!!!