始まりの始まり
それは、何気ない会話の中で、
突如、
飛び出して来ました。
「でも、多少は貯まってるんじゃないの?」と、私。
「何言ってんの、毎月、赤字よ?」と、妻。
「え。そうなの?」と、驚嘆する私。
「そうよ」と、冷淡に返す妻。
私は、当時、ゴトゴトと電車で30分ばかし行った所にある大学の学生食堂で働いていました。
その10数年前、私は、それまで勤めていた出版社を辞め、『主夫、髪結いの亭主、或いはヒモ』的な存在になりました。要は、『働いて、生活費を稼いではいない人』、でなきゃ『配偶者(若しくは、パートナー)の稼ぎで生活している人』とでも申しましょうか。一応、「小説家になる!!」などと豪語してはいましたが、当然、なれる筈もなく、6年ばかし、のんべんだらりと生きていましたが、到頭、業を煮やした妻に懇々と諭され、取り敢えず、目についた横浜のとある大学の学生食堂のパート募集に応募して、翌日から仕事に就き、途中、いきなり、別エリアのもっとハードな食堂に勤務する羽目にも陥りましたが、自分でもびっくりするくらい《調理》という職業に惹きつけられ、なんだかんだで4年の歳月が流れようとする、ある夜の事、そんな話になったのでした。
甘かった。
今更ながら(無論、当時ですが)に、思ったものでした。
妻は、ずっとフルタイムの仕事(正社員ではありませんでしたが)に就いていましたし、私も、妻程ではないにしろ、せめて、家賃、いや、そこまでは流石にいかないとしても、食費と遊行費ぐらいは賄っているんじゃないか、なんてヘラヘラと考えていたのでした。だから、月々、まあ、3、4万なんて無理だろうけど、精々、1万とか2万ぐらいは貯まってんじゃないのかしら。
のほほんと、そんなふうに高を括っていたのです。
赤字。
毎月、増えるんじゃなくて、減っている。
そ、そんな、馬鹿な。
いえ、事実でした。
そりゃ、そうです。子供がいないとはいえ、大の大人2人が暮らしてゆくのに、年収300万円以下(それも、かなり下回る数字で、おまけに、夫婦2人合わせての額ですから)では、先ず、貯蓄なんぞ、望めません。
そんなに贅沢をしていた訳ではないんですよ?
旅行なんて、年に1度行くか、行かないか。外食も、それ程しませんし。そもそも、ウチの奥さん、実に禁欲主義的な精神の持ち主ですから。石橋を叩いて渡るどころか、渡らずに引き返す。そういうタイプです。旦那は旦那で、ファッションにもギャンブルにも興味はないですし、まあ、本とテレビゲームと酒ぐらいですわ。でも、友達少ないし、本とかゲームは、新古書店なんかの100円コーナー物ばっかりだし。
あ。でも、あの頃に行った京都旅行は楽しかったなぁ。
そういえば、親からも、食費だ、小遣いだ、生活費の足しだと、結構、頂いていたのでした。正直、それがあるから、多少なりとも人並みの生活が出来ていたのかもしれません。
もう一回、繰り返しちゃいます。
自戒の意味も込めて、太字で。
「でも、多少は貯まってるんじゃないの?」と、私。
「何言ってんの、毎月、赤字よ?」と、妻。
「え。そうなの?」と、驚嘆する私。
「そうよ」と、冷淡に返す妻。
「え。そうなの?」じゃねーよ。
私は、大雑把に計算してみました。
あとどの位で、破滅的な、とまでは行かないまでも、今後の、特に〈老後〉に支障が出て来てしまう程の貯蓄額になってしまうのか、を。
宛ら、『日本沈没』の《D計画》に携わる人々のように。
で、その結果、導き出したのが、
『最悪の場合――これは、収入・支出の大小に関わらずだ。今後、6年乃至7年の内に、日本列島……じゃない、我が家の貯蓄の大部分は、日本経済の海面下に沈む……』
えらいこっちゃ。
この6、7年の内に、我が家の『沈みゆく貯蓄』を、何とかせにゃならん。
妻とふたりで話し合った末、兎に角、生活費の負担を減らそう、という結論に達しました。
今、何が一番、ウチの家計を脅かしているのか。
家賃だ。
では、家賃の負担を減らす為には、何をしたらよいか。
実家で同居?
これは経済的にも、物理的にも(そして、恐らく精神的にも)問題外でした。
それに、実家に関しては、もっと有効な活用方法がある、と当時の私たちは考えました(有り難い事に、その選択は、後に、実を結ぶ事になります)。
じゃあ、他には?
『もっと(それも大幅に)
安い家賃の部屋に引っ越す』
これだ。
で、〈もっと(それも大幅に)安い家賃の部屋〉って、何処にあるんだろう。
少なくとも、都会ではない場所には違いない。
それは、何処?
地方だ。
今から思えば、実に安易です。
でも、取り敢えず、こんなふうに我が家の《D計画》は始まったのでした。