夕陽の嘘

 

 アメリカの作家、パトリシア・ハイスミスの初期の短編に、『素晴らしい朝』(仮題『素晴らしい山』 The Mightiest Mountain 未発表)という作品があります。

 

 パトリシア・ハイスミスという人は、その処女作『見知らぬ乗客』(原題Strangers on a Train)が、アルフレッド・ヒッチコックによって映画化されたり、また、映画『太陽がいっぱい』(主演 アラン・ドロン 監督 ルネ・クレマン)の原作者(原題 The Talented Mr. Ripley 『才人リプレイ君』)だったりして、日本では、〈映画原作者〉という立場だけで、その名を知られてきました。実際、『太陽がいっぱい』の主人公トム・リプリーは、ハイスミスの作品の中でシリーズ化して行くのですが、恐らく、殆んどの人は知らないと思います。

 私も、その内の、一人です。

 

       

 

 そんな背景が関係しているのでしょう。主に、1950年代から70年代にかけて活躍した作家ですが、我が国では、殆んど翻訳されてきませんでした。

 1990年代になって、漸く、未訳作品が書店に並ぶようになり、グレアム・グリーン云う所の『不合理な展開や不安感』を得意とするハイスミスの作品の妙が、私たちにも浸透するようになりました。

 

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 短編『素晴らしい朝』は、都会での暮らしに疲れ果て、新天地を求めて、長閑な田舎の町での生活を始めた男の物語です。

 

 男は、その町の素晴らしさ、人々の温かさに触れ、漸く、自分らしい生き方が出来ると、天にも昇るような心地を味わいます。やがて、一人の少女と出会い、心を通い合わせるうちに、その全てが、思いもよらない状況へと、変わっていってしまいます。 

 

 何もかもが、素晴らしいと思える瞬間ばかり。

 これで、やっと自分が望んでいた人生が送られる。

 そう思っていたのに。

 

 たった二言三言の会話が、

 ちょっとした表情が、

 何気ない動作が、

 

 少しずつ、少しずつ、

 不安と猜疑、そして、冷淡さへの架け橋となってゆく。

 

 特に、誰かが死ぬ訳でもありません。

 殺人が起こる訳でもなし、

 暴力も、一切、振るわれません。

 

 なのに、この最後の文章まで辿り着いた時に感じる恐怖は、何なのでしょう。

 

 (前略)永遠の可能性を秘めていた朝、そして、永遠に何も起こらなかった朝。

       《河出書房新社『回転する世界の静止点』初期短編集1938-1949 宮脇孝雄訳》より

 

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 或いは、人は、端っから『希望』などという代物は、『絶望』という冷たい液体に浸して置くぐらいが、丁度良いと、そういう事なのかもしれません。