《ゾンビ》についての一考察

 

 眉間にしわを寄せて、凝然と考え込んでしまったのでした。

 特に、《記憶》に関しては、年齢の所為もあるのでしょう、やけに、その手のパターンが多くなった気がします。

 どこかで、見た。

 どこかで、聞いた。

 確かに。

 なのに、僅かな、本当に、僅かな記憶の残滓みたいな存在しか捉えられず、余計に気になって、何度も何度も思いかえしてみても、一向に、思い出せない。

 眉間のしわが、どんどん深くなる。

 前々回〈ショート・ホラー・ムービー〉(ん?〈ホラー・ショート・ムービー〉だっけ)について書いて以降が、丁度、そんな感じです。 

 ホラー映画を見始めた切っ掛けは、確かに、サム・ライミ監督の『死霊のはらわた』でした。

 じゃあ、一番好きなホラー映画も『死霊のはらわた』?

 そう考えたのが、いけなかった。

 確かに、好きです、『死霊のはらわた』。イーヴル・デッド。

 しかも、敬愛するH・P・ラヴクラフトの〈ネクロノミコン/死霊秘法〉がモチーフだし。

 おまけに、あの映画、全編、ユーモアに満ち溢れているのですよ。

 観る人によっては、ですけども。

 

 で。

 

 あれ?

 違う……『死霊のはらわた』じゃ、ないかもしれない。

 もっと、とても好きなホラー映画があったような気がしてきたのです。

 思わず、友達に薦めたくなるような。

 と、謂う訳で。

 散々、考えに考え、《記憶》を掘り起しました。

 

 

 オムニバス映画のうちの一編だったかしら。

 一時期、その手のオムニバス・ホラーを、よくビデオレンタルで借りて来ては、観たものです。スティーヴン・スピルバーグ制作の『トワイライト・ゾーン』(かつての大人気テレビ・シリーズを映画でリメイクした作品)が、当たったからかどうかは知りませんが、僕がホラー映画を見捲っていた80年代は、ケッコウ、オムニバス系が撮られてました。

 実際、『トワイライト・ゾーン』は、当のスピルバーグを始め、ジョン・ランディスジョー・ダンテジョージ・ミラーといった、当時、売れっ子の映画監督が集結して撮った作品でしたから、まぁ、当たらない方が、おかしいともいえるのですが。四話オムニバス形式で、プロローグが第四話のラストに繋がるという粋な作りをしています。特に、ジョージ・ミラーが撮った、その第四話の評判が良かったようです。

 私的には、第二話のスピルバーグ作品も、小品ながら、なかなか良く出来ていたと思いました。

 でも、どれも違うような気がします。

 いずれも、ホラー小説の帝王スティーヴン・キングとホラー映画の巨匠ジョージ・A・ロメロがタッグを組んで制作した『クリープ・ショウ』だったかも。

 いや、違うな。あの映画で憶えているのは、エピソードの一つ、宇宙から飛来した隕石を触った農夫が〈苔人間〉と化してしまう話で、主役の農夫を演じたキング御大の怪演ぶりだけだし。

 散々、記憶を辿り……

 そして。

 とうとう。

 

 思い出したのです。

 

『恐怖の採魔』

 

 うん。

 多分、こんな題名だった。

 はず。

 めっちゃ、ウロオボエです。

 けれども、ストーリーは、とてもよく憶えています。

 オープニングは、撃たれるか何かした兵士が、奈落の底にでも落ちて行くかのような、暗闇にくるぐると回りながら吸い込まれてゆくシーンから始まります。

 ところ変わって、如何にもアメリカンな田舎町(多分、アメリカだと思うんだよなぁ)。若者が、故郷に帰ってきます。けれど、若者は、死んで帰ってきたのでした。徐々に腐り出す若者。体を維持するためには、血液が必要なので、次々と、人を殺しては、血を抜き取っていきます。けれど、体は、どんどん腐って、崩壊し始め、遂には、ゾンビと化して、大勢の人々を殺してゆく。ラストシーンが、印象的でした。町の人々に追い詰められ、墓場に逃げ込むのですが、掘りかけの墓穴に自ら飛び込み、自分で土をかけて埋まろうとする、哀しいシーンで終わります。

 まぁ、主人公の若者に殺された人たちには、申し訳ないですが。

 兎に角、当時、ホラー映画ばかり観ていました。サム・ライミの『死霊のはらわた』シリーズ。ジョージ・A・ロメロ『ゾンビ』三部作、『マーティン』。ジョン・カーペンターの『ハロウィン』、『ザ・フォッグ』、『クリスティーン』。カナダの鬼才、異色の内臓美系監督デヴィッド・クローネンバーグの『スキャナーズ』、『ヴィデオドローム』、『デッド・ゾーン』、トビー・フーパー悪魔のいけにえ』、ウェス・クレーブンエルム街の悪夢』、ジョー・ダンテハウリング』、ジョン・ランディス狼男アメリカン』等等等。もともと、所謂〈ホラー〉系は大好物で、吸血鬼や狼男、怨霊、ゾンビ、半魚人、魔女、悪魔、古の者どもたち、兎に角、どろどろ、ぐちょぐちょ、げーげー、ぐわぐわ、どれもみな、好きでした。

 《人体損壊嗜好》との関連性については、あまり考えたくないのですが、基本、子供の頃から、その手の話には、なにも抵抗がなかったようです。

 まぁ、そんなことは、どうでも宜しいですが。

 で。

 結局、思い出せませんでした。

 

 仕方がないので、他人の力を借りようと思い、当時、その事について話し合った友人(でも、そう思っていたのは、私だけでした。すみません)に尋ねたり、昔、映画雑誌の『スクリーン』が出した5冊のホラー特集号をひっくり返したり、それでも、見つからず、結局、《教えて、goo》に投稿したら、アラマ、簡単に判明しました。

 世の中には、本当に、物知りな方が居るものだなぁ、と感動しました。

 〈hanhangege〉様、有難う御座いました。この場を借りて、改めて、お礼申し上げます。

 

 さて、教えて戴いたサイトから辿って行くと、あれこれと判明しました。

 

 映画の原題は、

 

デッドオブ・ナイト』

 

 本邦では劇場未公開ですが、やっぱり、テレビでは放映されたようです。

 で、その邦題が、

 

溶ける

 

 うーむ。

 『恐怖の採』では、なかったのか……。

 それとも、そんな副題が付いてたのでしょうか。

 それにしても、『溶ける顔』て。

 確かに、溶けるんだけれども。

 いや、溶けるというか、腐れ落ちるというか。

 特殊メイクは、トム・サヴィーニが担当しています。

 トム・サヴィーニといえば、ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』で、一躍、脚光を浴びた《人体破壊》造形の第一人者です。

 その彼の、最初期の作品という事ですが、無論、その腕は冴えわたっております。

 主人公のアンディが徐々に脱血症状(まぁ、そんな症状があれば、の話ですが)に見舞われ、皮膚がカサカサモロモロに朽ちてゆく様を、実に、見事に再現しとられます。オールマン医師(アンディの秘密、即ち、彼が死んでいる人間だと知ってしまったからだったか、血液を盗むためだったか、その両方だったか、忘れましたが)を、注射器1本で殺害した後、狂気に満ちた歓喜の表情を横顔から捉えたシーンは、特に、そのカサカサモロモロ観が良く出ていて、印象に残っています。

 ですが、私が、特に強く記憶しているのは、ラスト・シーンもさることながら、恋人だったか妹だったか、若い女性と車に乗っている時のシーンでした。

 アンディは、カサカサモロモロを隠す為に、常にサングラスを掛けています。女性は、アンディに蠅がたかったり、何か得体の知れない臭気に気づくのですが、アンディは適当にごまかそうとします。

 その時。

 額の端っこ辺りから、トロリと、何やら黄土色の液体が流れて来るのです。

 なんだろーなー、あの液体。

 サングラスで隠そうとしても、体の方は、実に正直。

 ううう。

 お食事中の方(は、そうそういないとは思いますが)、ごめんなさい。

 監督は、ボブ・クラーク。B級ホラー映画好きの人たちの間では、『死体と遊ぶな、子供たち』という、ホラーとコメディを融合させた怪作で有名な方です。とはいうものの、アメリカやカナダでは、数々の映画賞を受賞する作品をプロデュース・監督されている非凡な人物として名が知られていました。残念なことに、2007年に自動車事故で息子さん共々亡くなっています。

 

 

              

 

 

 さて、私が、この『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』に、酷く惹かれる訳は、何も、そのホラー描写(〈残虐描写〉という言い方も、こう書くと、まろやかになりますが)ばかりが気に入ったからではありません。

 例えば、映画のラストで、町の人々に追い詰められたアンディ(もう、完全にゾンビ化しています)は、車を使って、次々と人を襲い始めるのですが、特に、バックと前進を繰り返して車首の方向転換をしながら、男の子を何度も何度も轢く描写は、残虐さもさることながら、アンディの心理を見事に表しているように思えて仕方がありませんでした。

 その直ぐ後、車を乗り捨てたアンディは、墓地に掘られた墓穴に飛び込み、グズグズになった腕で周囲の土を掻き寄せては、自らに掛けて埋まろうとします。

 その行為は、私の耳に、こんな叫び声を聴かせるのです。

 

「俺は、もう死んでいるんだ、頼む、墓に入れて埋めてくれぇっ」

 

 殆どのゾンビ映画で、《死》に関しては、余り多くは語られません。〈ゾンビ〉という〈生きている死人〉が存在している時点で、《死》という概念自体が崩壊しているからです。ゾンビ状態になった原因は、ストーリーの中で語られたり語られなかったり(宇宙線、ウイルス、寄生虫等々)ですが、基本、ゾンビの理(ことわり)に適った生態(うーん、妙な言い方だ)は、詳しくは語られず、非常に曖昧なまま、ストーリーは進行して行きます。まぁ、怖く、酷く、残虐で、取り敢えず、面白ければ良いので、特に、深遠な設定はいらなかったりもするのでしょうが。

 あ。それは、ほぼ全てのホラー映画に当て嵌まりますか。

 ジョージ・A・ロメロのゾンビ3部作最終作品《ザ・デイ・オブ・デッド/死霊のえじき》で、ゾンビの〈人間性〉についてが描かれたり、イケメン・ゾンビ男子を主人公にした《ウォームズ・ボディーズ》のような〈ハート・ウォーミング・ゾンビ・ラブ・コメディ〉なる作品が作られたり、と唯々でくの坊のようにふらふらと歩き、生きた人間と見れば、襲いかかり、噛みつき、貪り喰らうだけの無個性なゾンビ(いや、今、ここに書いた3つの特徴だけでも、相当個性的ですが)から、徐々に人間に近い習性を持つゾンビが出現しつつあるのも事実です。それに、最近のゾンビたちは、普通に走りますしね。ブラッド・ピット主演の『World War Z』なんて、ありゃもう、百万頭のヌーの大群が、全速力で追っかけて来るみたいなもんですもの。逃げる方も、結構、必死です。

 『ゾンビの視点から、映画を作る』という行為自体が、文字通り、モブキャラ(ゾンビなんて、名前のない〔但し、恐るべき〕群衆以外の何者でもないですから)だったゾンビの中に、我々が〈人間性〉を見出し始めた証左に他ならないのでしょう。

 まぁ、〈ネタ切れ〉とも言いますが。

 ゾンビ映画に於いて、《死》が語られない大きな理由のひとつは、それが、ゾンビのゾンビたる所以だからです。

 〈ウォーキング・デッド(歩く死人)〉という言葉が表す通り、死んでいるのに、生きているかのように振舞う存在、それがゾンビなのですから、どういう理由であろうと、《死》の状態は必須な訳です。ですから、その二者(《死》と《生》)の関係の矛盾性に、深く突っ込まれると話が立ち行かなくなってしまいます。

 ゾンビを動かしている要因とは何かについては、ある程度は説明がなされます。ウイルスや化学薬品、寄生虫などが齎す、活性化エネルギー。魔術や呪術、妖術の類い。夭折したSF作家の伊藤計劃は、そこに、ダイレクトに《魂》という存在を持ち込んだりしています。

 ただ、何れにしても、ゾンビは、それらの要因で生かされているのではありません。飽く迄も、死んでいる状態でなければ、ゾンビとは言わないのです。単に、言い方の問題のように感じられるかもしれませんが、死んでいるのに、生きている状態だから、ゾンビなのです。生きているのに、死んでいる状態をゾンビと呼ぶのは、西アフリカ社会における社会的制裁行為(と言われている)『ゾンビ・パウダー』に因る人間の〈ゾンビ化〉だけでしょう。そして、それは《死》んでいるのではなく、《死》に近い状態ながら、《生》きているのです。何らかの形で、ちゃんと《死》を迎えた上で、尚且つ《生》(或いは、それに近い形態)を維持した状態。それがゾンビの定義だと、私は考えます。

 

 では、《死》とは何でしょう。

 或いは、《生》とは。

 この問いは、見かけほど単純ではありません。

 不可逆的な動的方向性だけでは解決が付かない、非常に複雑且つ深遠な問題を含んでいます。

 

 あ。

 何も、今更、こんな大上段に言うほどのこともありませんでした。

 そんなことは、誰でも、知っています。

 

 実は、私は、この『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』に、《死》と《生》の意味を垣間見るのです。

 

 英国の作家、W・W・ジェイコブズの短編小説『猿の手』は、怪談或いは怪奇小説の古典的名作として名高い作品です。私は、昔から、この作品が大好きで、これをモチーフにして、矢鱈長い小説を書いた事もあるくらいです(まぁ、だから、何?って話なんですが)。

 老夫婦とその息子が、どんな事でも三つだけ願いを叶えてくれるという『猿の前足のミイラ』を手に入れます。前の持ち主は、「定められた運命を無理に変えようとすると災いが伴う」という教訓を示す存在だから、あまり薦められないと忠告するのですが、彼らは、それを無視して、面白半分に、願いを口にしてしまいます。

 最初の願いは、「家のローンの支払いに使いたいので、200ポンド欲しい」

 翌日、彼らは、200ポンドを手に入れます。ですが、その金は、勤務先の工場の機械に挟まれて死んだ息子に対して、会社から支払れた金一封でした。

 嘆き悲しんだ末に、老妻は、息子を生き返らせてほしいと老父に迫ります。勿論、あの『猿の前足のミイラ』を使って。無惨な死に様を見ている老父は躊躇しますが、結局、老妻に押し切られ、息子を生き返らせてくれと頼みます。

 やがて、玄関のドアを、密やかにノックする者が訪れて……。

 狂喜した老妻は、玄関へと走り、ドアの閂を外そうとします。

 恐怖に駆られた老父は、最後の望みを『猿の前足のミイラ』に告げるのでした。

 ラスト数行が齎す、恐ろしくも哀しい余韻は、ぜひ、原作でご堪能あれ。

 

 素人考えですが、W・W・ジェイコブズは、運命(人生と置き換えた方が、据わりは良いでしょうか)を無理矢理変えようとする者の哀れを描きたかったのだと思います。ですが、私は、この生き返った(と思しき)息子のことが、気になって気になって、仕方がありませんでした。

 息子は、一体、どんな姿で、老父母の前に現れようとしていたのか。

 若しも、息子が生きて帰ってきたら、3人はどのように暮らしてゆくのか。

 生き返った息子は、果たして人間なのか、それとも、まったく別の存在なのか。

 私は、その先が、どうしても知りたくて、自ら、物語を書いてしまいました。勿論、名作『猿の手』の続編を書こうなどと言う大それた真似など出来っこありません。舞台を日本に据え、生き返って来るのは、息子ではなく娘とし、更に、警察との絡みだの国家的陰謀だの、父親の望みを叶える超自然的存在など、兎に角、あれこれ矢鱈にぶち込んで、最終的に、原稿用紙3400枚ほどの大部になってしまいました。

 

 まぁ、それはそれとして。

  

 『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』をいろいろと調べているうちに判ったのですが、監督のボブ・クラークは、矢張り、このW・W・ジェイコブズの『猿の手』にヒントを得て、『デッド・オブ・ナイト』を製作したらしいのです。お題は、ほぼ、そのまんまです。死んだ息子が、生き返って返って来る。生きるための血液欲しさに殺人を繰り返し、だが、自らの《死》と《生》のギャップに最後まで苦しみ、絶望と怒りの中で、その身を墓穴へと投じます。彼が、その後どうなったのかは、映画の中で語られる事はありませんでした。 

 

 《死》には、二つの側面があると思います。

 極めて個人的な《死》と、《死》する者以外にとっての《死》です。

 勿論、《生》も、同様な側面を併せ持ちますが、《死》ほど明確ではありません。

 《生》者は、《生》者同士、ある程度の意思疎通が可能です。自分が、どのように《生》を感じているか、他者は、どのように《生》を感じ取っているか。言葉や、感情や、視覚を通じて、汲み取ることが出来ます。自己の《生》と他者の《生》は、極めて近しい距離を保つ事が可能なのです。

 ですが、《死》は、そうは行きません。《死》を感じ取れるのは、その《死》を授かった者だけです。《死》を分かち合う事は出来ません。《死》は、究極の個人的経験なのです。仮に、自ら《死》を選び、それを持って《死》を分かち合う行為だと主張したとしても……いえ、それは無理です。他者に分かち合った結果の感想を伝える術がないのですから、単に《死》という究極の個人的体験がひとつ増えるだけです。

 ですから、他者は、その《死》を、別の意味に差し替えて感得する以外、《死》者の思いなり悲しみを分かち合う方法はないのです。喪失感。失う事の悲しみ。痛みや苦しみへの感情移入。奪っていた何物かに対する怒り。時には、〈宗教〉という形を取り、或いは、〈心霊現象〉や〈スピリチュアル〉といった、やや如何わしい形態を取りながらも、やがて、両者の《死》は、分かたれて行く運命にあります。

 〈記憶〉という優しくも無慈悲な生体システムの中で。

 そう、少なくとも、今現在、この大地は、〈生者〉の王国なのですから。

 

 アンディは、どうして、死んだのに、生き返って来たのか。

 ゾンビは、なぜ、死んでいるのに、生きている(ように振舞える)のか。

 実は、そんな問いに、意味はないのでしょう。

 

 『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』、或いは、その他のゾンビ映画が投げ掛けているのは、前述した《死》の二つの側面、《生者》が担う《死》の側面と《死者》が担う《死》の側面を、極めて近しい距離へと無理矢理近付ける、即ち《生者》同士の繋がりと同等の関係性を、《死者》と《生者》の間で再び築き上げる行為に対する問い掛けなのだと思うのです。 

 例えば、それをソフトなパターンで描こうとすれば、梶尾真治の小説『黄泉がえり』(映画化もされました)になるのだろうし、《生者》の側面から、更にダイレクトに描こうとすれば、木部公亮監督の作品『遺言』になるのでしょう。

 では、『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』は、どちらの側面から描いたものなのでしょうか。

 勿論、《死者》の側面からです。アンディが血液を求めるのは、《生者》として生きたいがための妄執以外の何物でもないですし、《生者》に対する残虐な行為の数々は、自らが、結局は、《生者》にも、また、《死者》にも列せられない運命への怒りと焦燥、そして、哀しみの産物なのだと思います。 

 一方、《生者》の側から言えば、《死者》が《生者》となって帰って来たら、良くも悪くも、心穏やかではなくなるに違いありません。愛し、或いは、嫌い、憎んでいたとしても、一度は、完全にリセットされた関係が、再び、構築されるのですから。

 仮に、生き返って来た者が、怪物化していようが、生前のままであろうが、目の前に、起ち、動き、少なくとも、かつての面影を、そこに見出せるのならば、相手を《死者》として捉える事は、非常に難しくなるのではないでしょうか。

 

 

 今回、『恐怖の採』改め『溶ける』/『デッド・オブ・ナイト』を肴に、私は、だらだらと書き綴ってきました。

 そろそろ、結論に入る頃合でしょう。

 

 《生者》が抱える事になる、それらの困難さや苦悩、或いは、《死者》側が持つ怒りや焦燥(として、観る側/《生者》に齎される情動なり感情)の根底に横たわっているものとは、私たち《生者》が本能的に持っている《死》に対する畏怖感ではないでしょうか。

 《死》は、誰にも平等に訪れます。なのに、その理由は、誰も良く理解していません。分かっているのは、唯一つ、自らが、いずれ何らかのタイミングで、この〈生者〉の王国から、完全に消え去るという事。特例は、ありません。いえ、あってはならないのです。故に、私たちは、《死》を畏れます。殆どの人間が、それを望みません。或いは、敢て忘れているとでも言いましょうか。

 禁忌。

 そう断じてしまっても、良いのかもしれません。

 何故、ゾンビ(化)は、容姿的にも、また、物語的にも無惨な様相を呈するのでしょうか。

 何故なら、 それは、あってはならない、いえ、認めてはならない存在だからです。

 

 私は、こう思うのです。

 ゾンビ化とは、《死》というタブーの象徴ではないのか、と。

 

 まぁ、死人が生きているという段階で、禁忌もへったくれもないのですが。

 

 我が国で、一番最初に、その禁忌を具現化したのは、『古事記』に於けるイザナミノミコトです。火の神を産んだ事が原因で死んだイザナミノミコトを慕い、黄泉の国を訪れたイザナギノミコトが見たものは、全身に蛆虫と雷を纏った、愛する妻の無残な姿でした。正体を知られたイザナミノミコトは、化け物たちを遣い、かつての夫を殺そうと(あるいは、ジョォイナァァァス、仲間になろうよ、と言いたかったのかもしれません)します。様々な策略を使い、黄泉比良坂まで逃げ延びたイザナギノミコトは、とうとう後を追ってきたイザナミノミコトの前に大岩を置き、その進路を断ってしまいます。その時に、イザナミノミコトが放つ呪詛の言葉は、その儘、アンディの行為にも深く深く繋がる色彩を帯びています。

 

 (前略)爾千引石引塞其黃泉比良坂、其石置中、各對立而、度事戸之時、伊邪那美命言「愛我那勢命、爲如此者、汝國之人草、一日絞殺千頭。」爾伊邪那岐命詔「愛我那邇妹命、汝爲然者、吾一日立千五百產屋。」

 

 イザナミノミコトは、夫に告げます。

「私の愛しい貴方が、このような仕打ちを為されるのなら、私は、貴方の国の人間たちを、一日千ずつ縊り殺して差し上げましょう」

 夫、イザナギノミコトは、こう返します。

「私の愛しいお前が、そのような仕打ちをするのならば、私は、一日千五百の産屋を建てることにしよう」

 

 恐らく、このイザナギノミコトが最愛の妻に返した言葉こそが、ゾンビという存在に対する、我々人間が最後の最後に持ち得た究極の防御策なのでしょう。

 《死》を、或いは、《死》の禁忌を制する存在は、《生》しか在り得ない。

 《死》に対する畏怖という本能とは、また別の形で人間が取得した、それは、決して輝きを失わない、《生》の本能なのだと思います。

 

 それでもなお、《死》に対する畏怖が消えない繊細な部分に、容赦なく指やら爪やら歯やらを突き立てて来るゾンビにこそ、その真実が如実に顕れているのかもしれませんが。

 

 

               

 

 

 あちこち、ネットの中を渉猟していたら、こんな一文を見つけました。

 

ゾンビ映画の父ジョージ・A・ロメロ、「ゾンビが走るのは解せないよ(笑)」』

 

 うん、私も、結局は、そう思うな。

 

 

 

がんばれ、はち子ちゃん

 久々に、ネコさんの話でも。

 ウチにも、ネコさんがやってくるようになりました。

 

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 こんなネコさんです。

 

 この伊那谷という土地柄からか、ご近所には、矢鱈、ネコさんが大勢います。

 実は、ついさっきも、病床に伏すネコさんのお見ミャいに行ってきたばかりです。

 病魔調伏を願って、自家製の御みゃ守を渡してきました。

 どうか一日も早く、病が治りますように。

 ネコさんの神様、宜しくお願い致します。

 

 そうそう、ネコさんを嫌う人って、雨の中を墓場に運ばれるそうです。

 土砂降りの日の葬送。

 それもなかなか、味があってよろしいかも。

 でも、私は、きっと、ダメだな。

 晴れ渡る空の下、荼毘に付されるのでしょう。

 参列者(が、少しでもいたらだけど)にとっては、好都合だけど。

 どうぞ、伊那谷のネコさんたち、みんなに、最大の幸あれ。

 

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the room

       
                      Cam Closer - YouTube

 

 あぁ、結局は、貼り付けてしまいました。

 よくよく調べたら、この〈一部屋で起こる恐怖の数々〉は、シリーズ化されてました。

 いずれも、良い出来です。

 ぜひ、御一覧を。

 それにしても、《ショート・ホラー・ムービー》……ん?《ホラー・ショート・ムービー》? ま、どっちでもいいか。

 まー、いっぱい、作られています。

 宝の山と言っても、過言ではありません。

 サム・ライミ監督の出世作『死霊のはらわた』で、ホラームービーの虜になった人間としては、スプラッター系もおススメなのですが、止めときます。

 あ。

 でも、この作品群も、【閲覧注意】の部類に入るかも。

 前頭葉が締め付けられるほどの恐怖が苦手な人は、観ないでくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玉響

 気が付けば、ここ一ヵ月程、書いてませんでした。

 やや面倒くさい内容のブログを、別に起ち上げてしまって……

 というのは、言い訳ですが。

 何となくの低迷状態。

 ネタを探すのも、億劫だし。 

 そんな中、偶々ネットで見つけた《ショート・ホラー・ムービー》の数々にハマってしまい、続けざまに観ていたら、夜の霧を撮りたくなりました。

 

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 家の前の道と、霧。

 そして、無数のオーブ。

 かな?

 

 少しだけ、世界が歪んでしまったかも。

 でも、好きです。

 そういうの。

 

 明日も、きっと。

 

 因みに、おススメの《ショートホラームービー》は、

 

 『cam closer』

 

 2分14秒の中に、ホラーのエッセンスがタップリの逸品です。

 小道具よし、映像よし、出演されてる女優さんも、とてもいいですし。

 ぜひ一度、ご堪能あれ。

 

 あ。

 動画は、貼り付けません。

 コワいから。

 

 

 

 

 

 

オールウェイズ・カミングホーム

 

 ここ伊那谷の地での初めての冬を迎えてからというもの、ずっと、頭から離れないイメージがあります。

 

 ワイエスの絵。

 

 運転の途中で、ふと目にする風景。

 冬枯れた畑の隅の小さな池。

 曇天が切り取る木々の傾斜。

 骨組みまで朽ちた農機具小屋。

 なだらかな丘に点々と散らばる家々。

 そして、四つ辻や土手に積まれ、置かれ、建立されている石たち。 

 

 アンドリュー・ワイエス

 アメリカの国民的画家。

 リアリズム絵画の巨匠。

 孤独の天才。

 私が、初めて観たワイエスの絵は、〈クリスティーナの世界〉でした。

 と言っても、画題は勿論、誰が描いたものかすら、知りませんでした。

 友人宅の壁に飾ってあったその絵は、強く、私を惹きつけました。

 孤独。悲哀。苦悩。寂寞。荒涼。

 恰も、一枚の写真のように切り取られた、その独特のタッチは、どこか私の心に、なんとも言い知れぬ陰影を落としたものです。

 

 やがて、テレビでやっていたワイエスの特集で、その絵の作者の名と描かれた背景を知ったのですが、作者名は兎も角、絵が描かれた背景については、あまりに思い描いていたイメージとはかけ離れていたものですから、なんとも、人間の主観なんぞというものは当てにならない、と笑ってしまいました。

 

 因みに、これが〈クリスティーナの世界〉です。

 

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 アンドリュー・ワイエスは、アメリカのペンシルバニア州フィラデルフィア郊外のチャッズ・フォードに生まれ、画家としては、生涯、この生地と別荘のあったメイン州クッシングの二つの地の風景と暮らす人々だけを描いたそうです。

 ここに描かれた〈クリスティーナ〉は、クッシングに住む女性です。幼い頃から両足が不自由な彼女の生活は、『這う』ことによって成り立っていました。〈クリスティーナ〉は、実に、力強く生きた人です。彼女は、両手と、その動くところの体のみを使って、『這い』ながら、家事をこなし、人生を全うしました。この絵に描かれた情景は、〈クリスティーナ〉が彼女の家族が眠る墓地へとお参りに行った、その帰りだと言われています。彼女が目指す先には、我が家があります。私たちが見る限りでは、『這って』行くには、とても遠く難儀な道のりに思えてしまいます。ですが、彼女にとっては、日常茶飯事、きっと『ノー・プロブレム』な行為なのでしょう。

 孤独も、悲哀も、苦悩も、寂寞も、荒涼も、〈クリスティーナ〉には、余計なお世話、彼女は、その全てを受け入れた上で、唯々、前を向き、粛々と我が家へと帰る、それだけの事なのです。他者の〈日常〉とは、きっと、そういうものなのでしょう。

 けれど、そんな後思案を余所に、ワイエスの筆致がひしひしと伝えて来る、容赦ない〈世界観〉が存在するのも事実です。

 

「私は秋と冬が好きだ。その季節になると、風景の骨格が感じられてくる。その孤独、冬の死んだようなひそやかさ」

 

 ワイエスは、そう語っています。

 風景の骨格。

 例えば、想像してみてください。

  

 

 この絵の、春の風景を。

 或いは、夏の情景を。

 木々は、緑葉に覆われ、大地には、緑の絨毯が敷き詰められる事でしょう。

 鳥達が囀り、花々が揺れ、心地よい風が林を吹き抜けます。

 人間が〈緑〉を〈緑〉として捉える脳のメカニズムや、その理由については、一先ず置くとしても、〈緑〉という色彩は、非常に、心地よい感覚を人間に齎します。

 或いは、それは〈生〉を表すのに、最も適した色彩かもしれません。

 春は、それまでの何もかもが寒さに包まれ、廃色に彩られた冬から一転して、一気に暖かな色合いに包まれ、生命が再び謳歌する〈始まり〉の季節。冬という厳しさの中で、一旦リセットされていた〈生〉は、春がそっと押した芽吹きのスイッチと共に、大きなうねりとなって、大地を覆ってゆきます。

 そのひとつの象徴が、〈緑〉なのです。

 けれど、ワイエスの絵には、そんな目にも心にも心地よい空間は、全く見当たりません。在るのは、唯、静寂と孤独、そして、真摯さ。孤高の画家は、自らを抽象画家であると語っています。彼の絵に描かれたリアルさは、その儘、自身のリアルな心象に他ならなかったのでしょう。

 

「私の作品を身近な風景を描いた描写主義だという人達がいる。私はそういう人達をその作品が描かれた場所へ案内することにしている。すると彼らは決まって失望する。彼らの想像していたような風景はどこにも存在しないからだ」

 

 私は、この《伊那谷》という大谷の風景の何処に、否、何に、ワイエスの心象を重ねたのでしょうか。〈信仰〉や〈祈り〉とは無縁な筈の私に、この大谷は、奇妙な感慨を芽生えさせました。畑の畦道に、道の四つ角に、ぽつんぽつんと鎮座した『石』の守り神たちは、実に孤高な存在であると同時に、極めて強い訴求力を放出する力強さを、私に与えてくれました。その感慨は、〈クリスティーナ〉が目指す先に、風が吹きぬける農場の一角にもまた、『石 』の存在を教えてくるのです。

 或いは、その感慨こそが、風景の骨格なのかもしれません。

 いや、この場合は、〈生の骨格〉と表現した方が精確でしょうか。

 何もかもが削ぎ取られた後に残った本来性。

 赤裸々で生々しい生。

 そこに見え隠れする〈死〉への……

 そう。

 問題は、その先なのです。

 

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緑の墓

 

 彼らは自分たちの像を石には彫らない、木に彫るのだ。

     アーシュラ・K・ル・グィン 『世界の合言葉は森』より 小尾芙佐

 

 

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 『石』という《素材》ーーいや、《概念》と言う表現の方が、しっくりするかもしれませんーーが、《信仰》に於ける偶像の材料とされたり、或いは、《信仰》の対象自体として扱われたりする理由を、『石』が兼ね備える特質の一つである〈不変性〉に観るという考え方があります。

 その《素材》としての特質である堅固性や、太古よりずっと同じ『形状』の儘であるという永続性から、〔変わらない=不死〕という図式を成り立たせる考えを始め、もっとダイレクトに、〔死〕の象徴として『石』を捉え、故に敬うとする見方、或いは、『石』の『形状』を何物かに見立てて、それを永年に亘って崇拝するうちに、ひとつの《信仰》として定着する様式など、何れの背景にも、『石』の〈不変性〉が色濃く影響を及ぼしていると言えます。

 一方、『木』にも、樹齢数百年と言われる巨木が、世界中に存在します。中には、樹齢2000年とも、4000年とも言われる古木すらあると言われています。そこに〔不死〕を垣間見る事は、十分に可能な筈です。ですが、『木』或いは『樹』に求められたモノは、『生』に因んだ〈神性〉でした。春、若葉が芽吹き、夏、青々と緑葉を茂らせ、秋、紅葉に映え、冬、落葉の時を迎える。けれど、再び、春の訪れとともに、若葉を芽吹かせる。このサイクルに、人々は〔不死〕ではなく〔生生〕のみを観ました。

 

    

 

 何故なら〔不死〕とは、謂わば『死』の延長に在るのであり、〈死なない〉事は〈生きている〉事と、イコールとは限りません。死んだ儘、生きている。その場合もまた、〔不死〕だからです。『生』の延長は、飽く迄も『生』であって、『死』が訪れれば、どういう形で在れ、『生』は、そこで一旦、リセットされます。そこから再びの『生』が芽生えるからこそ、『木』は或る種の超自然的な『生』存在として、人々に敬われたのです。

 だからこそ、〈樹木〉を信仰の対象とする場合、万物全般に霊的存在が宿るとする、所謂《精霊信仰(アニミズム)》を根源として、神が降りる神聖な事物と観る〈神籬(ひもろぎ)〉或いは〈依代(よりしろ)〉としての役割を、〈木〉或いは〈樹〉に担わせました。

 

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 『石』も、当然ながら、《精霊信仰》の影響と〈神宿り〉的な側面を併せ持っています。所謂〈磐座(いわくら)〉と称される『石』或いは『岩』の《御神体》が、それです。また、陰陽石に代表される 〈✕✕石(岩)〉のように、動物や人間、或いは人間の身体の一部や空想上の生き物などに見立てる〈形状石〉にも、同様の成立ちが窺えます。

 ですが、『石』への《信仰》に比べ、『木』或いは『樹』への《信仰》は、宗教的根源は同じでありながら、我が国に於いては、より構造的な発展を遂げました。〈神籬〉そして〈依代〉として用いられた『木』は、やがて『柱』という代替的な概念となって、流布していきます。神社仏閣に於ける『宗教建築』の要材として活用され、また、神様を『一柱』、『二柱』と数えたり、『柱』に主軸を置いた式典や祭が各地で開催されたり、或いは、一家の主を『大黒柱』と称したり、その用法は、精神的にも、実際的にも、私たちの生活に、深く浸透していきました。

 

 

 

 現在でも国土の約三分の二が森林で覆われている島国に於いては、『木』が、人々の生活に関わる割合は、『石』に比べ、格段に高かったでしょう。燃料、住居、日用雑貨、農具、遊具など、『木』は、この国の生活全般に広く用いられ、同時に、心情的にも、強く、密接な関係性を産むことになったのです。

 加工がしやすく、また、様々なサイズが簡便に手に入るという『木』のコストパフォーマンス性の高さは、矢張り、『石』とは比較にならなかったと思われます。かと言って、『石』が『木』よりも、希少性が高いと謂う訳ではなかったのも事実です。火山大国でもある日本に、『石』は豊富に有りました。〈石工〉と呼ばれる人々も多く存在していましたし、その流れは〈墓石〉という形態となって、今も、脈々と受け継がれています。

 

            

 

 

 ですが、(石炭や鉄鉱石、或いは石油などの特殊な存在は例外としても)燃料にはならず、日用品としては、『木』に比べると矢張り、加工し難く重量的にも重い『石』は、日本では、特に敬遠されました。また、火山大国であるが故に地震も多かったこの国では、崩れ易い『石』は、住宅にも不向きでした。堅牢性が求められる城壁や堤など土木分野での活用はされたものの、より生活に密着した使われ方に於いては、『木』の貢献度には、到底、及ばなかったのです。

 であるならば、この国に於ける『石』への《信仰》とは、一体、どんな情念に基づいたものだったのでしょうか。

 

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 前述した〈墓石〉の歴史には、『仏教』が影を落としています。我が国の〈墓石〉の原初は、『遺体』即ち『〈死〉に対する恐怖』を隠す《蓋》でした。やがて、それは〈目印〉という目的を持つようになり、更に進んで〈権力誇示〉という行為へと結びつき、《墓標》というより、或る種の『建築物』として築かれていきました。

 〈埋葬〉や〈墓〉に対して、その考え方や建立の仕方に規律・制限が与えられ始めると同時に、《死者=仏》という概念が『仏教』を通じて中国より伝来すると、〈墓石〉は限られた特権者の持ち物から、徐々に庶民の間にも広がりを見せ、また、それまでの〈目印〉や〈権力誇示〉と言った外観的意味付けから、《供養塔》としての機能を持つ、埋葬する側の精神面を投影させた存在へと変化します。

 実は、この流れの中にこそ、『木』と『石』が内包するに至った《信仰》への《概念》差が存在するのではないかと考えます。

 

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 冒頭で述べた通り、『石』の《信仰》には、その〈不変性〉という特質が強く影響しています。一方の『木』には、〈連環性〉とでも呼ぶべき、常に《新しい存在》へと生まれ変わる〔生生〕のサイクルに対する驚異、或いは畏怖(若しくは憧憬)が、その《信仰》を支える精神的母体として人々の心に根付いていました。

 我が国古来の〈神道〉では、『禊(みそぎ)』が象徴するように、〈新しき清浄成る存在〉が尊ばれました。従って、常に新しく再生する『木』は、持って来いの存在だったでしょう。また、自然を敬う宗教形態を持つ〈神道〉にとっては、どちらかと言えば、〈無生物〉の『石』よりも、〈生物〉の『木』への愛着が勝ったとも考えられます。これらの特質に加え、〈神仏習合〉という我が国特有の歴史的経緯が拍車をかける格好で、『木』は、日本の神社仏閣の中枢に、深く入り込んでいきました。

 では、『石』は、我が国の宗教に於いて、どんな立ち位置にあったのでしょうか。
 確かに、日本の〈信仰〉の中では、〈主〉的立場は『木』で、『石』は〈従〉に甘んじざるを得なかったのだと思います。何しろ、〈木〉偏に〈主〉と書いて、『柱』と読むくらいですから(まあ、余り、関係なかったかもしれませんね。失礼しました)。ですが、反面、『木』は、余りに日本の〈信仰〉に深く入り込んでしまった所為で、その実像が、やや見え難くなってしまった感があります。『森に木を隠す』ではありませんが、眼前に広がり過ぎて、ごく一部の象徴的な祭事に於いてしか、『木』の宗教的存在を認識する事は能わなくなってしまったのではないでしょうか。
 けれど、『石』は、自らの宗教的存在を、未だに強く放射しています。〈墓石〉〈石仏〉〈石塔〉〈道祖神〉或いは、〈碑〉。考えようによっては、〈木〉よりも、強い〈信仰〉力を維持している、と言えるのではないでしょうか。
 その一つの表れが、《境界線上の守り主》たちなのです。
 

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